ログイン十か月前、2025年4月。
歌舞伎町には、雨が降っていた。
涼はホストクラブ「ルージュ」の看板の下に立ち、ガムを噛みながら、ピンクのジャケットの襟を立てた。スマホのメモをもう一度確認する。三番テーブル、沙織、売掛三十八万円。
売掛とは、いわゆるツケのことだ。ホストクラブでシャンパンを入れた女が支払えなければ、ひとまず店が立て替える。その後、組の人間が取り立てに来る。回収できなければ、その借金は別の形に変わる。たとえば、風俗店で働くための契約書に。
これが彼女にとって初めての仕事だった。
今夜の彼女はミオ、二十二歳。群馬出身、大学中退。池袋で八か月ほどキャバクラ勤めをしていた。金に目がなく、命が惜しくて、口だけは達者。蒼誠会のフロント企業「ナイトリンク」では、計算のできる集金役の手が足りなかった。マネージャーのゆみ姐が、昨日ちょうど彼女を雇ったところだ。
本名は篠宮涼、二十五歳。警視庁組織犯罪対策部の巡査部長で、コードネームはM-07。
三週間前、連絡担当官の高瀬が一枚の写真を彼女の前に差し出した。写っていたのは、白いシャツを着た中年の男だった。
「鷹野。蒼誠会本家の若頭だ。この界隈の店の半分は、毎月こいつに上納金を納めている。裏金はすべてこいつの手を通り、もう一冊の帳簿に記録される」高瀬は言った。「潜り込んで、その裏帳簿を見つけろ。それ以外のことには一切かかわるな」
涼は、今回の潜入を志願した理由がほかにもあることを、彼には話さなかった。だが、高瀬はおそらく察していた。
彼女はガムを吐き捨て、ドアを押し開けた。
むっとする熱気が押し寄せた。香水と酒と煙草の匂いが混ざり合い、店内のスピーカーからは十年前のラブソングが流れている。彼女が入口で立ち止まったのは、ほんの一秒にも満たない。正面の出入口、カウンター奥の厨房口、右手の非常階段、トイレの小窓。出口は四つ。逃走経路を頭に描いてから、ようやく店内へ足を踏み入れた。
そして、カウンターの一番奥にいる男に気づいた。
黒いシャツ。壁にもたれ、目の前にはほとんど口をつけていないビールが一杯。三十代前半、肩幅が広く、脚が長い。襟元のボタンを二つ外し、髪は無造作に乱れていた。店で一番高いホストでさえ、隣に立てば作り物めいて見える。男の顔には気だるげな笑みが浮かんでいた。まるで、この店も、この街も、今夜の雨さえも、すべて自分に借金をしているかのように。
問題は、その顔ではなかった。
煙草に火をつけようとうつむいたとき、目の端で正面の出入口を確認する。マッチ箱に手を伸ばしたときは厨房を。バーテンダーに口を尖らせて話しかけたときは、非常階段を。
彼もまた、出口の数を数えていた。
三つ。あの小窓は数に入れていない。涼はもう一度窓を見た。窓枠の幅はわずか四十センチ。大人の男が通り抜けられる大きさではない。彼が数えた出口が一つ少ないのは、彼女より正確に見極めていたからだ。
涼は噛んでいたガムを噛む歯を止め、口の中にもうガムがないことに気づいた。
チンピラが店に入って最初に見るのは二つ。知り合いがいるか、誰かが酒をおごってくれるか。入店早々に出口の数を確認する人間なら、彼女は二種類しか知らない。警察官か、人を殺したことのある人間だ。
男がふいに顔を上げた。二人の視線が宙でぶつかり、同時に弾かれたように離れる。
彼女は男のところへ歩いていき、二席離れた場所に腰を下ろした。バッグを乱暴に置き、バンッと音を立てる。「マスター、沙織って子を探してるんだけど」
「三番テーブル。今、泣いてるよ。あとにしたら?」バーテンダーは顔も上げずに答えた。「何飲む?」
「誰かがおごってくれるやつ」
「それなら、あっちに聞いて」バーテンダーは隣へ顎をしゃくった。「蓮さん、またツケが一行増えますよ」
「つけといて」男は笑った。
「店への借金、もう相当な額に――」
「借金なんて、今さら一つ増えたところで変わらねえよ」
バーテンダーはため息をつき、ハイボールを一杯差し出した。
涼は横目で男を見た。「いくら借りてるの?」
「この店に? それとも全部合わせて?」
「全部」
「三百二十万」男はなぜか少し得意げだった。「利息はあんまり計算してねえけど」
涼は心の中で点数をつけた。顔は九点、素行は三点。三百万以上も借金があるのに人に酒をおごるなんて、ギャンブル狂か、ただの馬鹿だ。
だが、馬鹿は出口の数を数えたりしない。
店の隅にある三番ボックス席では、沙織が泣いていた。化粧は崩れ、黒い涙の筋が二本、頬を伝っている。向かいのホストは脚を組み、優しい声で言った。「君が払うべきなのはお金じゃない。俺の顔を立てること、だよ」
涼がどう切り出そうか考えていると、視界の端で男がカウンターの反対側にあるライターへ手を伸ばした。ボックス席には一寸たりとも視線を向けない。袖口がわずかに揺れ、万札が三枚、通りかかったトレーの中へ滑り込んだ。
トレーはそのまま沙織のテーブルへ運ばれた。ウェイターが何かを小声で告げると、少女はきょとんと顔を上げ、泣きやんだ。
一連の動きは、二秒にも満たなかった。
三百二十万の借金を抱えた男が、今夜自分が取り立てるはずの女のために、三万円を立て替えた。涼はすぐにその意味を理解した。これで沙織は彼に借りができた。今後、この借金をどうするかは、すべて彼の胸先三寸というわけだ。
手際がいい。
「名前は?」男はカウンターに肘をつき、首を傾けて彼女を見た。
「ミオ」
「偽名だな」
涼の心臓が半拍だけ乱れた。だが顔には呆れたような表情を浮かべる。「どうしてわかるの?」
「響きがよすぎる」男は笑った。「親がつける名前ってのは、そんなにしゃれてねえよ」
「じゃあ、あなたは?」
「黒瀬蓮。本名だ」男はグラスを揺らした。「どこの小娘だ? 初日から一人でルージュに乗り込んでくるとは、いい度胸してるな」
「群馬。大学中退。奨学金の返済が山ほど残ってる。元カレには金を持ち逃げされた」涼は顔色一つ変えずに答えた。「ほかに質問は?」
「ある。元カレが逃げたのって、お前にビビったからじゃねえの?」
「……喧嘩売ってる?」
「兄貴ー!」
店のドアが勢いよく開いた。丸顔の青年が、雨水を全身から滴らせながら飛び込んでくる。骨組みの折れた傘を握りしめ、「煙草、買ってきました!」と叫びながらカウンターまで駆け寄り、隣に女が座っているのを見て、ぴたりと動きを止めた。
三秒後、青年の声が裏返った。「あ、兄貴、女ができたんですか?!」
「海斗、黙れ」
「いつの間にそんなことに?!」青年は腰を九十度に折った。「姐さん、こんにちは! 三浦海斗です。兄貴の舎弟っす!」
「私は違――」
「こいつの言うことは真に受けるな」蓮は煙草を受け取り、壊れた傘を青年に押しつけた。「ほら、ちゃんと使える傘を買ってこい」
「はいっ!」海斗は入口まで走り、また振り返ると、涼に向かって意味ありげにウインクした。「姐さん、ご安心を! さっきのことは何も見てませんから!」
ドアがバタンと閉まった。
「あいつ、何を見たの?」
「さあな」蓮はため息をついた。「あいつの口癖だ」
カウンターの周りが静かになった。
涼はグラスを持ち上げ、一口飲んだ。
グラスは左手。右手は身体の横に自然に垂らし、空けたまま。腰のベルトから拳一つ分の距離を保っている。本人にその自覚はなかった。父親は警察官だった。家で食事をするとき、父の右側にはいつも何も置かれていなかった。八年前、父は建物の外階段から転落した。報告書には事故と記されていた。その年、彼女は十七歳だった。その後、警察学校に入り、教官から半年間、徹底的に叩き込まれた。そんな所作は、とうに骨の髄まで染みついていた。
「……面白いな」
声が、突然すぐそばでした。
涼が反応するより早く、男の手が彼女の左手首をつかんでいた。
力は強くない。だが、振りほどけない絶妙な強さだった。掌はひどく熱く、指先が脈の上を押さえている。まるで何気なく、彼女の鼓動に触れたかのように。
「小娘」蓮は顔を寄せ、笑った。目だけは少しも笑っていない。「不良の女は、そんなふうにグラスを持ったりしねえよ」
涼の呼吸が、半拍止まった。
彼は彼女の耳元へ顔を寄せた。吐息が耳たぶをかすめる。声は、彼女にしか聞こえないほど低かった。
「右手は、何かを抜くために空けてるんだろ?」
「瓶の栓を抜くくらい、いいでしょ?」涼は言った。蓮は一瞬きょとんとし、それから吹き出した。彼女の手を離し、両手を軽く上げる。「わかった。俺の見立て違いだったな」涼は手を袖の中に引っ込めた。心拍は不自然なほど落ち着いている。訓練の成果だ。だが、掌にはすでに汗がにじんでいた。彼が見誤ったとは思えない。この動きを一目で見抜ける人間は、同業者か、潜入捜査官を見つけることに長けた人間くらいだ。肩に手が置かれた。「新人か?」脂ぎった声。酒臭い息。視界の端に太い金のネックレスと、リストバンドを巻いた手が映る。男はそのまま彼女の隣に腰を下ろした。体重をカウンターに預ける。「ナイトリンクから沙織の取り立てに来たのはお前か? 俺は猿渡だ。ルージュの売掛はずっと俺が回収してる。俺のシマで仕事を横取りするなら、筋ってもんを通すんだ。わかってるよな?」「猿渡さん」蓮の口調が、急に丁寧になった。「この子、今日が初出勤なんですよ」「お前は引っ込んでろ」猿渡は蓮を見ようともせず、酒臭い息を涼の顔に吹きかけた。「筋ってのはな、最初の一週間の稼ぎの三割を俺に納めることだ」涼は動かなかった。頭の中で男の情報を整理する。三十五歳前後。右手に拳ダコ。左膝に古傷。重心は右寄り。酒が回っている。三手あれば倒せる。だが、ミオはそんなことができる女じゃない。「お兄さん、私、まだ一円も回収できてないんだけど」「なら、先に借りを作っとけよ」猿渡の手が彼女の腰へと滑る。「俺に付き合え。利息は俺が自分で取り立ててやる」涼はカウンターの下で、指を一本ずつ握り込んだ。初出勤の小娘が関節技を使えるはずはない。だが、ただ耐えればいいわけでもない。こういう場所では、一度なめられたら、その後は毎日つけ込まれる。
十か月前、2025年4月。歌舞伎町には、雨が降っていた。涼はホストクラブ「ルージュ」の看板の下に立ち、ガムを噛みながら、ピンクのジャケットの襟を立てた。スマホのメモをもう一度確認する。三番テーブル、沙織、売掛三十八万円。売掛とは、いわゆるツケのことだ。ホストクラブでシャンパンを入れた女が支払えなければ、ひとまず店が立て替える。その後、組の人間が取り立てに来る。回収できなければ、その借金は別の形に変わる。たとえば、風俗店で働くための契約書に。これが彼女にとって初めての仕事だった。今夜の彼女はミオ、二十二歳。群馬出身、大学中退。池袋で八か月ほどキャバクラ勤めをしていた。金に目がなく、命が惜しくて、口だけは達者。蒼誠会のフロント企業「ナイトリンク」では、計算のできる集金役の手が足りなかった。マネージャーのゆみ姐が、昨日ちょうど彼女を雇ったところだ。本名は篠宮涼、二十五歳。警視庁組織犯罪対策部の巡査部長で、コードネームはM-07。三週間前、連絡担当官の高瀬が一枚の写真を彼女の前に差し出した。写っていたのは、白いシャツを着た中年の男だった。「鷹野。蒼誠会本家の若頭だ。この界隈の店の半分は、毎月こいつに上納金を納めている。裏金はすべてこいつの手を通り、もう一冊の帳簿に記録される」高瀬は言った。「潜り込んで、その裏帳簿を見つけろ。それ以外のことには一切かかわるな」涼は、今回の潜入を志願した理由がほかにもあることを、彼には話さなかった。だが、高瀬はおそらく察していた。彼女はガムを吐き捨て、ドアを押し開けた。むっとする熱気が押し寄せた。香水と酒と煙草の匂いが混ざり合い、店内のスピーカーからは十年前のラブソングが流れている。彼女が入口で立ち止まったのは、ほんの一秒にも満たない。正面の出入口、カウンター奥の厨房口、右手の非常階段、トイレの小窓。出口は四つ。逃走経路を頭に描いてから、ようやく店内へ足を踏み入れた。そして、カウンターの一番奥にいる男に気づいた。黒いシャツ。壁にもたれ、目の前にはほとんど口をつけていないビールが一杯。三十代前半、肩幅が広く、脚が長い。襟元のボタンを二つ外し、髪は無造作に乱れていた。店で一番高いホストでさえ、隣に立てば作り物めいて見える。男の顔には気だるげな笑みが浮かんでいた。まるで、この店も、この街も、今夜の雨さえも、すべて自分に借金
タオルが三度目に顔へ押しつけられる前に、涼はどうにか半息を吸い込んだ。氷水が浴びせられ、鼻から喉へと流れ込む。彼女は心臓の鼓動を数え始めた。父に教わった方法だ。耐えられなくなったら数を数えろ。痛みを数字に変えるんだ、と。十九回目を数えたところで、タオルが引きはがされた。椅子ごと身体を半ば持ち上げられ、そのままコンクリートの床に叩きつけられた。彼女は肩に顔を押しつけるようにして咳き込み、血の筋が混じった水を吐き出した。手首には結束バンドが食い込んでいる。もう三日目だ。締めつけられた箇所の感覚は、とっくになくなっていた。「咳は済んだか?」向かいの男は、客にお茶が冷めていないか尋ねるような、丁寧な口調で聞いた。鷹野は折り畳み椅子に腰掛け、白いシャツの袖を肘までまくり、青磁の茶碗を手にしていた。蒼誠会本家の若頭であり、東京の裏社会で二番目の地位にいる男だ。彼がわざわざこの地下室まで足を運んだのは、彼女にたった一つ、問いただすためだった。「篠宮巡査部長」鷹野は茶の表面に息を吹きかけた。「もう一度聞く。お前の連絡担当は誰だ?」涼は顔を上げた。彼女の名は篠宮涼、二十五歳。警視庁組織犯罪対策部所属、コードネームはM-07。この界隈では、十か月ものあいだ「ミオ」と名乗っていた。数日前まで、連中も彼女をミオと呼んでいた。正体が露見したその時から、鷹野だけは呼び方を変えた。彼はすでに、彼女が警察官だと知っている。今この質問をしているのは、彼女の背後にいる人間を一人残らず吐かせるためだ。「何度も言ったでしょう」自分の声とは思えないほど、喉はかすれていた。「私は田中花子です」鷹野は、なかなか面白い冗談を聞いたとでもいうように、薄く笑った。そして隣へ指先を向ける。部屋の隅から老人が現れた。六十代半ば、骨と皮ばかりに痩せ、白い手袋をはめている。三十年にわたり鷹野の運転手を務めてきた男だ。この三日間、一言も口を利いていない。老人はバケツを持ち上げた。中の氷がガラガラと音を立てる。彼は再びタオルを水に浸した。涼はバケツを見つめ、呼吸をゆっくり整えた。話すわけにはいかない。口を開けば、連絡担当官も、同僚たちも、札幌の高校に通う少女の父親も、誰一人として生きてはいられない。二晩は耐え抜いた。三晩目だって乗り切れる。あと少し、耐えれば――廊下から革靴の足音が聞こえてきた。